コラム column

「〜次世代を担う子どもたち〜」
人は「二度とこのような悲しみを味わうことがないように」と経験から学び、教訓を得るが、その危機意識は月日が経つ毎に色褪せていってしまう。世の中がオリンピックという明るい未来に向かいつつある中、「震災から4年、被災地は復興しつつあるだろう」と考えていた僕は、それが間違った見解であると、この夏に身をもって実感した。
2015年9月、僕たち高橋恭子ゼミ5期生は福島県南相馬市にある太田小学校を訪れた。「南相馬市の良さを伝えよう」というテーマのもと、小学5年生・6年生とショートムービー制作をすることになった僕たちは、班ごとに分かれ、2日間にわたって取材と撮影を行った。 僕たちの班では、南相馬市原町区にある「もち処 木乃幡」を取り上げることになった。 創業19年目のこのお店では、看板商品の「凍天(ドーナツのような衣の中にヨモギのお餅「凍もち」が入った和洋折衷な揚げ餅菓子)」以外にも、おこわ、ぼたもち、杵つき餅など、こだわりの素材を使った商品が販売されていた。
僕が訪れた時は、活気のある“地元民に愛されているお店”という印象を抱いたが、震災当初は原発20km圏内の会社ということで、本社工場が使用できなくなり、一時販売を休止していたという。現在は宮城県へ仮移設を遂げ、製造運営、そして会社の維持になんとか奮闘している状態とのことであった。 「この4年間、どれほど苦労されたのだろう」、そう考えると胸が締め付けられた。合宿を通じて、そのような想いを抱いたのは1回ではなかった。 決して快適とは言えない仮設住宅での生活、崩れてむき出しになった山肌、整備されていない道路、積み上げられた黒いビニール袋…。 僕が福島で見た光景は、「復興」という言葉からはほど遠いものばかりで、メディアを通じた情報を鵜呑みにし、復興は進んでいると考えていた自分自身の愚かさを思い知らされた。
しかし、太田小学校の子どもたちの笑顔を見た時に、救われる想いがした。 普通の校舎、普通のグラウンド、普通の体育館、普通の教室、普通の給食。 僕自身が過ごしてきた小学生時代と変わらぬ景色がそこにはあった。 辛い過去を経験しているのにも関わらず、前向きに今を全力で生きている子どもたちには、都会のこどもたちにはない力強さを感じた。
この合宿で出会った子どもたちがこれからどのような人生を歩んでいくのかは僕には想像できないが、「未来はそんなに悪くない」と子どもたちが思えるような社会を僕たちの世代が創っていかなくてはならない、そう思った。
人は「二度とこのような悲しみを味わうことがないように」と経験から学び、教訓を得るが、その危機意識は月日が経つ毎に色褪せていってしまう。世の中がオリンピックという明るい未来に向かいつつある中、「震災から4年、被災地は復興しつつあるだろう」と考えていた僕は、それが間違った見解であると、この夏に身をもって実感した。
2015年9月、僕たち高橋恭子ゼミ5期生は福島県南相馬市にある太田小学校を訪れた。「南相馬市の良さを伝えよう」というテーマのもと、小学5年生・6年生とショートムービー制作をすることになった僕たちは、班ごとに分かれ、2日間にわたって取材と撮影を行った。 僕たちの班では、南相馬市原町区にある「もち処 木乃幡」を取り上げることになった。 創業19年目のこのお店では、看板商品の「凍天(ドーナツのような衣の中にヨモギのお餅「凍もち」が入った和洋折衷な揚げ餅菓子)」以外にも、おこわ、ぼたもち、杵つき餅など、こだわりの素材を使った商品が販売されていた。
僕が訪れた時は、活気のある“地元民に愛されているお店”という印象を抱いたが、震災当初は原発20km圏内の会社ということで、本社工場が使用できなくなり、一時販売を休止していたという。現在は宮城県へ仮移設を遂げ、製造運営、そして会社の維持になんとか奮闘している状態とのことであった。 「この4年間、どれほど苦労されたのだろう」、そう考えると胸が締め付けられた。合宿を通じて、そのような想いを抱いたのは1回ではなかった。 決して快適とは言えない仮設住宅での生活、崩れてむき出しになった山肌、整備されていない道路、積み上げられた黒いビニール袋…。 僕が福島で見た光景は、「復興」という言葉からはほど遠いものばかりで、メディアを通じた情報を鵜呑みにし、復興は進んでいると考えていた自分自身の愚かさを思い知らされた。
しかし、太田小学校の子どもたちの笑顔を見た時に、救われる想いがした。 普通の校舎、普通のグラウンド、普通の体育館、普通の教室、普通の給食。 僕自身が過ごしてきた小学生時代と変わらぬ景色がそこにはあった。 辛い過去を経験しているのにも関わらず、前向きに今を全力で生きている子どもたちには、都会のこどもたちにはない力強さを感じた。
この合宿で出会った子どもたちがこれからどのような人生を歩んでいくのかは僕には想像できないが、「未来はそんなに悪くない」と子どもたちが思えるような社会を僕たちの世代が創っていかなくてはならない、そう思った。
