コラム column






「発展を目指す東京、日常なき被災地」

「東京のニュースを見ていると、たまに、事故があったことなんか忘れてしまっているんじゃない か、と思うことがある。」

原発事故による放射性物質汚染により現在も全村避難中である飯舘村の村民の言葉だ。――風化。震災から3年半以上経った今、被災地福島は人々の記憶から少しずつ遠のきつつある。そ れは確かに自然なことではある。出来事に対する人々の関心は、いつかは薄まっていく。なぜなら関心を払うべき新たな出来事が次々と生まれるからだ。阪神淡路大震災やイラク戦争など、規模がどれだけ大きくてもいつかは風化し、過去のものとなっていく。しかし、今の福島はそれらとは異なる。事故による被害は過去のものではなく、現在進行形で続いている。

私たち高橋恭子ゼミ生(政治経済学部3年)は、今年9月16日から19日にかけ、福島県の被災地を訪れた。それまで、第一原発に近い富岡町から双葉町間の国道6号線は、未だ線量が非常に高いことを理由に封鎖されていたが、私たちが訪れた日の前日の9月15日に交通規制が解除された。私たちのバスはその解禁して間もない道路を通った。そのエリアに入るや否や、辺りのあまりの異常さに、車内の和やかな雰囲気は一変した。割れたままのガラス。歪曲した看板。壁もろとも崩れた民家。震災から3年半以上経つが、この一帯だけごそっと取り残されているかのようだった。生活の様子は見られず、行き交う車の他は、警備服を着た明らかに地元住民ではない人しなかった。

しばらく進むと、遠くに白くのっぺりとした無機質な建物が並んでいるのが見えてきた第一か第二か定かではないが、原子力発電所だ。私が気づいたのと同時に他のゼミ生も気づいたようで、車内は沈黙を強いられたかのように静まりかえった。私は呼吸を止めた。より正確に言うと、無意識のうちに呼吸を止めていた。瞬間的とはいえ、非常に線量が高い空間に私たちはいたのだ。バスの窓は全て閉じられていることを知りつつも、この空間に対する私の危険信号がそうさせたのだ。放射能という目に見えないが何としても体内に入れてはならない穢れのようなものが辺りに充満している。少なくとも私はそう思い込んだし、震災後の原発報道に触れてきた現代を生きる人々も程度の差こそあれ、そのように感じるだろうと思う。そこでは当然のように日常は剥奪されていて、残るは放射能という死への誘導の可能性という恐怖があるだけだった。明らかに、ここには住めない。と言うより、「住めない」と本能が告げる。



未だこのような状況だから、現在も避難生活を余儀なくされている人が大勢いるのだ。故郷を追い出されて遠い県外に行く人もいれば、線量が比較的低い地に作られた仮設住宅で神経をすり減らす生活を続けている人もいる。被災地訪問の最終日に行った松川工業団地(福島県・松川町)の松川第一仮設住宅に住む人によると、仮設住宅での生活は困窮を極める。壁が薄いためできる限り物音をたてないよう常に気を配らなくてはならない。しかし、生活しているとどうしても音が出る。日夜、隣の部屋から物音が聞こえてくるし、自らも同様に音を立ててしまっている。仮設住宅の住民は震災後3年間毎日、音を立てないようにと気配りをしている。

このような状況が変わらず続いているということを考えると、「風化」の二文字が浮かび上がること自体おかしなことだ。震災による被害は今も、彼らから日常を奪い続けている。一方で、社会は復興よりも経済発展を重視するようになり、アベノミクスやオリンピックなどが報道の中心となり、人々の関心の的となっている。12月14日の選挙では、いかに雇用を増やすか、いかに賃金を上げるかが語られるようになり、震災後の諸問題は忘れてしまっているかのようだ。

事故による被害はすでに過去のものだと錯覚していないか。福島でも東京と同じように日常が当然のように存在していると思い違いしていないか。被害は現在も進行しているし、住民は日常とは呼べない生活を送っている。福島を風化させてはいけない。でなければ、被害はいつまでも続くし、復興は完遂されない。

臼井建人 Kento Usui
人間の価値観や生き方に深く関わる文化の問題を、個々人の嗜好ではなく社会全体の問題として考えたいと思い、文化政策の研究をしています。理念や思想といった抽象的なものから、それを現実にする実践のあり方まで、広く研究対象にしています。