コラム column

「失われた飯舘村」
私たちは、あの惨劇から3年半経った福島県の飯舘村を訪ねた。村に人が生活している活気はなく、農地には汚染された土を詰め込んだ、不気味な黒い袋が山積みにされていた。 しかし、かつての飯舘村にはメディアの伝えない本当の姿があった。大自然に囲まれて、村人同士が助け合いながら生きていく活気ある生活である。各家庭同士で自らが栽培した野菜などを分け合う半自給自足の生活。夜は家族や友人と食卓を囲み、酒をかわし合う。そこには古き良き日本の姿があった。大自然の恵みを受け、スーパーに野菜を買いにいく必要もなかった。生きていくために必要なものはほとんど買わないで生活していくことができる。それこそが飯舘村の真の姿であった。
かつての飯舘村を支えていたのは、農業と畜産であった。家族の中でも役割が分担され、それぞれが自らの役割に生き甲斐を感じて生きていた。野菜を作り、家族に食べてもらう。風呂を沸かして、家族を温める。協力しながら生きていく生活の中に、人々は生き甲斐を持っていた。その生き甲斐も原発事故は奪っていった。
村民は現在、仮設住宅での避難生活を強いられている。仮設住宅での生活はかつての半自給自足の生活とは正反対のものである。生活に必要なものはすべてお金で買わなければならない。村民は、事故前の生活に戻るという希望と、かつての生活にはもう戻れないかもしれないという不安との間で葛藤しながら、事故から3年半以上経った今も避難所生活を送っている。
私は、今回飯舘村を訪問し、現場を自らの目で見て、村民から直接お話を聞くまでこのようなかつての飯舘村の生活について、全く知らなかった。おそらく、私と同様に多くの人々がこのような事実を知らないだろう。都心部の便利な生活から避難生活になるのも苦難がたくさんあるが、大自然に囲まれた半自給自足の生活から避難生活を強いられる方がより苦難が多いと私は考える。避難生活とかつての飯舘村での生活は正反対のものだからである。避難している村民の方々が早く帰村し、かつての生活を取り戻すことを願うばかりである。そのために、行政や私たちは何ができるのであろうか。
私たちは、あの惨劇から3年半経った福島県の飯舘村を訪ねた。村に人が生活している活気はなく、農地には汚染された土を詰め込んだ、不気味な黒い袋が山積みにされていた。 しかし、かつての飯舘村にはメディアの伝えない本当の姿があった。大自然に囲まれて、村人同士が助け合いながら生きていく活気ある生活である。各家庭同士で自らが栽培した野菜などを分け合う半自給自足の生活。夜は家族や友人と食卓を囲み、酒をかわし合う。そこには古き良き日本の姿があった。大自然の恵みを受け、スーパーに野菜を買いにいく必要もなかった。生きていくために必要なものはほとんど買わないで生活していくことができる。それこそが飯舘村の真の姿であった。
かつての飯舘村を支えていたのは、農業と畜産であった。家族の中でも役割が分担され、それぞれが自らの役割に生き甲斐を感じて生きていた。野菜を作り、家族に食べてもらう。風呂を沸かして、家族を温める。協力しながら生きていく生活の中に、人々は生き甲斐を持っていた。その生き甲斐も原発事故は奪っていった。
村民は現在、仮設住宅での避難生活を強いられている。仮設住宅での生活はかつての半自給自足の生活とは正反対のものである。生活に必要なものはすべてお金で買わなければならない。村民は、事故前の生活に戻るという希望と、かつての生活にはもう戻れないかもしれないという不安との間で葛藤しながら、事故から3年半以上経った今も避難所生活を送っている。

私は、今回飯舘村を訪問し、現場を自らの目で見て、村民から直接お話を聞くまでこのようなかつての飯舘村の生活について、全く知らなかった。おそらく、私と同様に多くの人々がこのような事実を知らないだろう。都心部の便利な生活から避難生活になるのも苦難がたくさんあるが、大自然に囲まれた半自給自足の生活から避難生活を強いられる方がより苦難が多いと私は考える。避難生活とかつての飯舘村での生活は正反対のものだからである。避難している村民の方々が早く帰村し、かつての生活を取り戻すことを願うばかりである。そのために、行政や私たちは何ができるのであろうか。